幕末最大の英雄の一人、坂本龍馬の魅力は、何と言っても自由奔放さである。その象徴が土佐藩を脱藩しフリーになることだろう。龍馬が天下に身ひとつとなる決断をした背景と、彼独特の柔軟な発想などについて、現代人との比較も交えて考えてみたい。
剣術青年からの出発
土佐藩の郷士・坂本龍馬は、嘉永六年(一八五三年)、十九歳の時に剣術修行のために江戸へ出た。 京橋桶町の千葉定吉道場に入門した彼は、間もなく大事件に遭遇する。
浦賀沖における、ペリー来航だ。 日本中をひっくり返した大事件だが、後に英雄といわれた龍馬もこの時は凡庸な青年に過ぎず、単純に「夷敵憎し」と考え、剣の腕を磨くことに集中した。 すなわち、大勢の攘夷主義の若者と何ら変わらなかったのである。
しかし、龍馬は師匠に恵まれた。 例えばペリー来航直後には大砲術を習うために、佐久間象山に入門。 幕末最大の異才の日常に触れることは、日々新たな発見であったはずだ。 修行期限が切れての土佐帰郷の際には米国事情に通じた画家・河田小龍と出会う。 小龍は富国強兵論を説いたといわれる。さらに二度目の江戸剣術修行時には、同じ土佐藩の若き巨人・武市半平太と藩邸で同室となる。 龍馬は武市と親交を深めることにより、土佐藩随一の頭脳から最新の思想を仕入れる……と、自分の知識を増やしていくのである。
時代が安政の大獄、桜田門外の変を経て激動の文久に入ると、武市が「土佐勤王党」を結成。 帰郷した武市は、先に帰っていた竜馬を土佐での加盟第一号にし、勤王倒幕を目的とした同志を増やしていく。 だが、ここで龍馬は意外な決断をするのだった。
こだわらない強さ 脱藩だ。 龍馬は文久二年、盟友・沢村惣之丞と共に無断で土佐を抜け出した。 その理由のひとつに、武市との意見の相違があげられる。 龍馬は、一藩勤王体制確立のために佐幕派の藩参政・吉田東洋暗殺を企てる武市に対して「東洋を殺しても、上には殿様(山内容堂)がいる。それも取り除くのか?」と土佐勤王党の限界を説き、袂を分かったのだ。
その後、龍馬は様々な傑物と知り合い、攘夷から開国、さらにはその先を見据えたグローバルな世界戦略へと意識を発展させていく。 亀山社中、海援隊、薩長同盟、大政奉還……すべては龍馬の思考の変化の歩みだ。 片や土佐勤王党による藩改革を推し進めた武市は、土壇場で山内容堂率いる保守派の反攻に遭い、志半ばで散ったのは周知の通り。
二人の違いは、こだわりの差だったかもしれない。 武市は「一藩勤王で活動しなければ日本を救えない」とこだわり、藩に残った。 だが龍馬は強いこだわりは持たず、時代の動きを読み、臨機応変に対応するために藩を捨てた。 もちろん、その根っこには「この国を良い方向へ進める」という揺るぎない理想が存在したからこそ功を奏した柔軟性である。
現代の防犯や防災においても、「でなければならない」とこだわり過ぎる姿勢は危険だ。 犯罪や自然災害は、常に予期せぬ形で襲ってくる。 それに対処するには万全の対策を整えた上で、臨機応変に動ける柔軟性を持つことが理想的なセキュリティではないだろうか。
武市は生前、龍馬を「土佐にはあだたぬ(入り切らぬ)男」と称した。 その言葉通り、藩を飛び出した風雲児の自由な生き様は、やはり痛快に思える。 月刊「安全と管理」2009年11・12月合併号掲載 |